震災、津波、放射能とかなり大変なことになっている日本の中心東京で、今古典芸能を勉強することになったのは偶然ではなさそうだ。能舞台はもちろん、以前に見た事があるが、今、この状況の中で見る舞台は斬新である。前日観劇した現代劇のチェーホフと比べて見ると、能の世界がいかに徹底したアナログなやり方でマジックのないところからマジックをつくりだしているか、よくわかる。 チェーホフの作品は『プラトーノフ』。これは、後に『桜の園』や『ワーニャ伯父さん』のプロトタイプともなった彼の若い頃の作品。劇団俳少という「新劇」(?)風の劇団、ロシア人演出家による公演。一方能は、喜多能流で『小督』『半蔀』、『絃上』の三本である。(上は観世能楽堂)
この二つの演劇を見て、「距離」ということが頭を離れなかった。見えているものと、言おうとしていることの距離。又、役者と役との距離。観客と役者との物理的距離。チェーホフも能も、自然には入っていけない演劇であることから、既にある距離は存在している。チェーホフは翻訳劇。鬘をかぶり髭をつけ、役者は外国人名で呼び合う。様式としては、いわゆる西洋劇で、設定も日本ではない場所である。能の言葉は古語。様式は音楽劇。設定は様々な戦国時代や平安時代といった昔の日本。自分たちが普段住んでいる環境とは違った環境でドラマが起こっている。さて、こういう状況で、この二つの演劇において、1)役者は自分の役とどう向き合うのか?そして2)観客とどう対話しようとするのか?
1)役者と役との距離
チェーホフの方には、役者が自分の役をこちらにひっぱってこようという絶え間ない努力が見られた。結果、日本人が外国人を演じる不自然さを拒否、又は無視している感がある。(ロシアの話で、彼らはロシア人であるという約束事を観客に強いていて、そこから来る生理的な違和感を役を「演じる」ことによって超えようとしている。一方、能はというと、現代の人間が語っている昔の物語なのですよということを役者も意識し、又観客にも意識させながら、(面や衣装、音楽等、形式的な)万全の準備を整えて、登場人物の魂が降りてくるのを待っている感である。あえて観客に強いるというよりは、私達はこれから儀式を行いますので、どうぞ見守り、物語を一緒につくってくださいというスタンスである。
2)観客との対話ー第四の壁
西洋演劇のプロシニアム舞台では「第四の壁」というのが観客と舞台との間にある。役者は視覚的便宜上、観客の方、つまり第四の壁に向かうことがある。チェーホフのこの劇の場合、登場人物の独白のセリフは殆ど、観客の方に向かって語られた。しかし、観客に語っているのではない。プロシニアムのきまりとして理解することは可能であるが、この手法は感情あい極まった瞬間に使われることが多く、観客は役者をクローズアップで見る事ができ、カタルシスに引き込まれる。この時、第四の壁は確実に存在し、役者のエネルギーはその壁でとまる。観客からのエネルギーもその壁でとまるので、直線的である。能は舞台も半スラストで、開いている為、第四の壁といえるかどうかはわからないが、役者が舞台の端ギリギリまで出てきたり、観客に向かって話したり、時には観客の方を向いてじっと立っていたりということが多々ある。この時、西洋風に(又は現代風に)「表現する」ことは極力おさえられており、ただそこに居る、その存在感が言葉を超える。そのエネルギーは観客の中を貫き、果てしなく遠く広がり続けていく。観客のエネルギーは役者に向かい、その中で漂いながらも、遠心的方向にひっぱられていく。ついには観客も役者も共に宇宙の大きなエネルギーの中にとりこまれていくのだ。ここには第四の壁がないかのような錯覚を受ける。常に幻想を破り続けながら幻想を生み続ける。人と神との距離。近づこうとしてもけして近づけない人間の姿、しかし、神との対話は可能。その時、魂がやどる。
この二つの劇をこの時期に見れたことは、非常に意味深いことだった。